宗教法人

来慶山忠暘院

「「働いて金を得る事」と「金を得る為に働く事」とは「ネコがネズミを捕らえて食う」と「ネズミがネコを捕らえて食う」くらいの違いが有ると知る事」令和4年3月1日記

「「働いて金を得る事」と「金を得る為に働く事」とは「ネコがネズミを捕らえて食う」と「ネズミがネコを捕らえて食う」くらいの違いが有ると知る事」令和4年3月1日記

「「働いて金を得る事」と「金を得る為に働く事」とは「ネコがネズミを捕らえて食う」と「ネズミがネコを捕らえて食う」くらいの違いが有ると知る事」

人間といえども勘違いした事がフツーだと錯覚するのだ。錯覚した事を固定すればずっと気づく事無く人生を終える怖さが有る。

現代人、ネコがネズミに捕食されないのが道理と知っているが、普段の生活を眺めれば金という道具に人生が振り回されている人間の現実を観る事が多々有る。

金なんて道具は働いた事に対する対価として受け取るモノなのだが、最初に受け取る金有りきで思考する事自体道理から外れているのだ。

思考自体が道理から外れていれば先詰まりの終焉を迎える。日々、働く事自体が苦役となり、そのうち心を病む事すら発生するのだ。

先ず金有りきで思考する輩が金持ちになっている姿をさほど観る事は無いし、例え金持ちになったとしても家庭なんぞの内部を垣間見れば、さほどどころかとても幸せとは思えない残念な状態なのだ。

一見、金という道具を大量に扱える人間に権力が集中する事を眺めれば金という魔力の有るモノに価値を置く気持ちも解らないでも無い。但、そんな金を扱う事で権力を手にした輩が創った国でも永遠に続かない事は有史以来の歴史が証明しているにも関わらず、勘違いする輩が出てくるからめでたいモノだ。

道理から外れていても勘違いすれば、自分の間抜けた思い違いにすら気づかないのが人間なのだ。間抜けた思い違いを正しいと思い突っ走る事も人間らしさと言ってしまえばそれまでの事だが…人生終盤で気づいたところで手遅れと記しておく。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。