宗教法人

来慶山忠暘院

「「嫌い」「面倒くさい」では無く、どうせやらねばならないならば好きに自分の心を転嫁してしまう事」令和4年2月13日記

「「嫌い」「面倒くさい」では無く、どうせやらねばならないならば好きに自分の心を転嫁してしまう事」令和4年2月13日記

「「嫌い」「面倒くさい」では無く、どうせやらねばならないならば好きに自分の心を転嫁してしまう事」

子育てされている世代の親御さんたちと話す機会が有るが、「子供には好きな事を選び自分らしい人生を歩んでもらいたい…」そんな話を聴く事が多いが、その言葉を深く考察し極論を言えば、自分の好きな事のみを選び人生を歩むとは「自己中の勧め」なのだと考える事が有る。「得意な事を活かして社会の役に立ってもらいたい…」ならばまだしも、自己中なんぞを勧めればそのうち先細りし自滅する事を親が子供に勧める事自体ナンセンスなのだ。

世の中を冷静に眺めれば解るが好きな事のみに特化した生き方なんぞ不可能と言い切れる。

現在自分は和笑(おしょう)を名乗りながら自分で創った宗教法人の代表役員をやっている。「好きな事やって楽しそうに人生過ごしていますね❗️」なんて言われる事が有るが、別に好きな事をだけを日々やっている訳では無い。

日々やりたくも無い会計業務…役所との折衝や提出書類の作成、日々持ち込まれる多岐にわたる相談事への対応等々、やりたくも無い「嫌いな事」「面倒くさい事」が多々発生するし、ゆっくり風呂に入っていたくとも急用の電話が入り即時に対応する必要も有る。

元来、怠け者という自負が有り、やりたく無い事はやらずに済む方法を模索してきたし、好きな事のみに特化した生き方を考えてきたが結論からすれば自分で法人を創ったからといって好きな事のみに特化させる事は人間社会で生きる以上不可能だと気づいた。

ならばどうすれば良いか?という事になるが「嫌い」「面倒くさい」を自分が思わなければ世の中には「嫌い」や「面倒くさい」事は存在しなくなるし、好きになれば更に良い事なのだと気づいた。

周囲の環境を自分の好きな状態に変化させる事自体が余計に面倒くさい。ならば自分の心を変化させる方が手っ取り早い。自分は面倒くさい事より手っ取り早い方を選んだだけの話だ。

どうせやらなければならない事を嫌々やるより、有限な人生の時間を有意義に過ごすには、「嫌い」「面倒くさい」事を好きに転換してしまう事。側から観ても楽しく生きている人間なんてその事に気づいただけの事なのだ。

解らない人間は解らない…そんな話を書いてみた。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。