宗教法人

来慶山忠暘院

「「日々必死になって高みを目指す」より「日々必死にやっていたら高みに到達していた」が人生では大切」令和3年12月10日記

「「日々必死になって高みを目指す」より「日々必死にやっていたら高みに到達していた」が人生では大切」令和3年12月10日記

「「日々必死になって高みを目指す」より「日々必死にやっていたら高みに到達していた」が人生では大切」

夢中という言葉が有るが大人になると忘れがちになる。

自分が幼少期を過ごした愛媛県新居浜市には「太鼓祭り」という一大イベントが有った。現在は知らないが、その頃は市役所も含め会社も休みになり祭りに参加せずば市民に有らず状態だったのだ。

各地区が持つ太鼓というドデカい神輿を大人100人くらいで街中引き回すイベントで、子供たちは各々笛を吹きながら太鼓に付いて一緒に歩いて行くと何キロどころでは無く移動していて立派な迷子になったものだ。

周囲から「よくあんな遠くまで行って…」そんな事を言われ呆れられる子供が続出した。

自分の幼い頃の記憶を振り返れば「10キロ以上先まで歩こう…」なんて最初思わなかったハズだが、夢中になって歩いて、気がついたら見知らぬ場所まで歩けていた。そんな場所まで歩けた事に自分自身驚いたのだ。途中で疲れた…しんどいと思った記憶は無い。

最初から10キロ以上歩こう…そんな目標を最初掲げたら途中で頓挫しただろう。高い目標を掲げるのは間違えてはいないが殆どの人間が頓挫する。途中で頓挫する割合が高い目標を設定しては意味が無い。

夢中になり日々必死になってやっていて、ある日気がついたら高みにいた。が本来有るべき姿だと思う。
まだまだ自分自身、山でいえば裾辺りをうろついている感もあるが、そんな事を考えた。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。