宗教法人

来慶山忠暘院

「「無いと困る」錯覚を捨て去り「無くても困らない」に思考を切り替える」令和3年12月25日記

「「無いと困る」錯覚を捨て去り「無くても困らない」に思考を切り替える」令和3年12月25日記

「「無いと困る」錯覚を捨て去り「無くても困らない」に思考を切り替える」

周囲を見渡しながら削いでいけば殆どが生きる為に無くても困らないモノ、コトだらけという状態なのだと気づく。

以前、数十年人が暮らした家をそのままの状態で買った事が有るが、不用品の量の多さに驚いた事が有る。自分自身にも当てはまる事だが、日常生活で1つ2つとモノを増やし…モノに溢れた目の前が当たり前状態となり大量な生きる為には不用なモノに囲まれて生活しているのだ。

「無くては困る」そんな感覚はほぼ錯覚でしか無い。極端だがシンプルに削げば1日生きられる片手にのる食糧と水が有れば良い…後は身体を安心して休める場所が在れば良いのだ。

大体、下駄箱を覗いてみればムカデくらい足が有る訳でも無いのに何足ものクツが有る。クローゼットを観れば十二単でも無かろうに着もしない服を何着もぶら下げている。

金だって錯覚に陥っているアホな輩が「老後の為に2000万必要❗️」なんて言って世の中の何も考えていない輩が追従いして騒ぎになったが、本来そこまで必要で無いモノを必要と説く感覚が自分には理解不可な事だ。

若い食べ盛りの頃修行寺生活をしたが最初100日禁足と呼ばれる厳しい期間で朝はお粥で、昼夜は一汁一菜生活だったが周囲誰も死ななかった。歳を取れば食う分量も減る…それほどあっちこっちを漫遊する事も無い。(ドラマ水戸黄門の観過ぎだろう…)現役時代とは明らかに生活スタイルが変わるのだ。

アホな輩は「無いと困る…」と死んだら持ってもいけないモノに執着し続ける。祖師が「己に隨い行くは只是れ善悪業等のみなり…」と説かれているがそんな一文でも意味を自身で考えれば良いのだ。(その文の前後には補足するがごとく説いておられる。興味があるならば自身で調べれば良い。)

シンプルに削ぎ落とし自分が本当に生きる為に何が必要なのかを年末に向けて精査し新年度を迎える事をお勧めしておく。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。