宗教法人

来慶山忠暘院

「そこに辿り着く過程を想像出来なければ何事にも対応出来ない」令和3年9月2日記

「そこに辿り着く過程を想像出来なければ何事にも対応出来ない」令和3年9月2日記

「そこに辿り着く過程を想像出来なければ何事にも対応出来ない」

現代諸々人間が巻き起こす諸問題を冷静に眺めた時その問題のモノゴトを起こした人間個々の想像力の欠如が根本に横たわる事に気づく。
想像力とは過去にも未来にも広げる事の出来る人間特有の智慧と思うが…人間特有の智慧で有っても日々磨かねば発揮する事は出来ない。
その想像力の磨き方だが…
目の前に写る全てが、因果報応の帰結した姿が如実に横たわる…単純な話、真実のみが目の前に在る。その真実を「何故?」「どうして?」と常々想像し続け目の前の帰結に至るまでの過程を考えて「道理に沿った当たり前」とする事だ。その真実を何とも感じる事無く「単なる当たり前」と処理し続けた人間は想像力を磨くどころか、退化し続けある意味の脳死状態となる。
何故?どうして?の思考を繰り返し、自分の中で「道理に沿った当たり前」まで昇華し続けた人間と、何も考えず「単なる当たり前」と流し続けた人間では年月の経過とともに雲泥の差が開くのは明白な理だ。
昇華させた「道理に沿った当たり前」に磨きを更にかければどんな目の前に起こった困った事象で在っても時空を超え望む最適解までアタマの中で持っていく事が可能となり、アタマで想像した事を具体的にリアル世界で表現しながらカタチと出来るモノなのだ。
決して難しい事では無く目の前によそわれたご飯一膳で有っても自分の目の前に置かれるまでの過程を想像する事でもそんな人間特有の智慧(想像力)は磨く事は出来…そんな些細な想像力を磨き続ける事でそのうち1つのモノゴト(事象)を眼にしただけでそれから先数多に広がる多数の結果まで読み解く力がついてくる。
いちいち文章にしていても書ききれ無いので後は割愛するが…詳しく知りたいならばアポを取り訪ねて下されば口頭にて説明させて頂くが、単純に「全てのモノゴトを「単なる当たり前」と処理し続けきた人間には起こった問題に対処する解決力は無い」という事だ。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。