宗教法人

来慶山忠暘院

「ザルに上から一方的に流し込んだ水は滴り落ちる」令和3年9月14日記

「ザルに上から一方的に流し込んだ水は滴り落ちる」令和3年9月14日記

「ザルに上から一方的に流し込んだ水は滴り落ちる」

現実学校現場で起こっている話を伝え聴く。コロナ禍で文科省から求められるカリキュラムを消化しなくてはならない現場の先生方の大変さを想像する。
多様な個々が重視される時代に突入しても理解出来ても出来なくても相変わらずのところてん教育の世の中なのだ。
人間をザルに例えるならば個々同じ目の大きさのザルでは無い。幼い頃から人間の質を高め、ザルの目を細かくし、諸々混ぜた水を流せば残るモノも有るだろうが、目の荒いザルに一気に水を流し込んだところで何も残らず滴り落ちるのが道理というモノだ。
単純な話、ザルの目の細かさこそが人間の質なのだ。
その細かいザルの目を創る方々だが、幼い頃から本物に接する機会を与える事でしか培う方法しか無い。例えるならば灘高の伝説の国語教師と呼ばれた橋本武氏が為された教育方法なんぞが典型だと思っている。一冊の良書を与え書かれた内容をリアルで体験させるやり方で有る。家庭内でもいくらでも応用は可能なのだが親自体ザルの目が粗く大きければそれも不可なのだ。
人間的に大きなザルの目のまま、必死になって解の有る事の解までの処理時間と正確さだけが価値有る事だと信じ込み、そんな事にのみ長けた輩を指導者と崇め奉る世の中が数十年続いたが、現在起こっている事を観てみれば解なき未知の事に対してあまりに非力だと解ったと思う。
但、こう書いたところで目の荒いザルに流し込む水と思っている。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。