宗教法人

来慶山忠暘院

「モノゴトを動かす時、そのモノゴトを派生させるとどれだけ沢山周囲への利となるかだけを意識する」令和4年2月18日記

「モノゴトを動かす時、そのモノゴトを派生させるとどれだけ沢山周囲への利となるかだけを意識する」令和4年2月18日記

「モノゴトを動かす時、そのモノゴトを派生させるとどれだけ沢山周囲への利となるかだけを意識する」

和笑(おしょう)を名乗り坊主をやっていると感覚が世間とズレる事が起こる。

釈迦が説かれた仏道と日々暮らす人の世を生きる人道の違いだと最近気づいた。モノゴトの秤…モノサシが根本違うのだ。違うモノサシで1つのモノゴトを測ればズレが生ずる事は当たり前なのだ。

先日アホな自分に智慧を授けて下さる人生の先輩で在る大崎弁護士(通称鎌倉のおじさん)が次男に「法律を知っている法律家では無く、法律も知っている法律家になりなさい…」と言われた言葉がストンと落ちた。

現在、宗教法人の代表役員をやっているが釈迦が生きた時代の仏道をそのまま実践すれば1年経たず俗に言う倒産の憂き目に遭うだろう…仏道も知っている和笑(おしょう)で無ければ現代社会では単なる役立たずなのだ。(社会と関わる事を遮断し自分自身の仏道のみを極める生き方を追求するならば「諸行無常」「放下著」の一言を発するだけで宗教法人忠暘院が潰れようが構わない事になるからそれも有りとは思うが、現在(いま)時点でそういう生き方をする気は無い。)

そんな事を思い現世、人間社会でモノゴトを進めていく上での考えの基本は「人道」なのだ。

人道での考え方に立ち、「1つのモノゴトを動かす時、どれだけ沢山世の中の役に立つか?」を意識する。

先ず自分有りきでモノゴトを構築し私心、私欲を挟み込み実践すれば先細りする上、災いは自分に跳ね返る体験を何度もしてきた経験則からだ。

世の中全てとはいかないまでも関わる周囲が少し良くなる算段くらいは誰しも少し考えれば出来る事だ。自己中、自分の目先の損得勘定のみを主体にするから周囲から人が離れてしまう事となる。

最初は身近な周囲へ利が及ぶ様に意識し、慣れてきたならば世の中…公の利を意識し実践実行する。

特に、「周囲から自分は認められていない…」そんな自己嫌悪を抱えているならばやってみる事をお勧めする。

そんな事を意識して生活する様になって感じる事は良い意味で人生が生きやすくなった実感が有る。利を与える人間を排除する人間はいない。気をつけなければならない事は利を与えながらも相手から利用されない事くらいだ。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。