宗教法人

来慶山忠暘院

「一番基礎中の基礎「人間とは?」を自分自身に問う事無く生きれば単なる物体で人生を終える」令和3年11月2日記

「一番基礎中の基礎「人間とは?」を自分自身に問う事無く生きれば単なる物体で人生を終える」令和3年11月2日記

「一番基礎中の基礎「人間とは?」を自分自身に問う事無く生きれば単なる物体で人生を終える」

「生まれてからただの一度も人間として生まれた意味を考えた事も無いんでは無いか?」と思う様な輩ばかりが増殖していると感じ、時々怒りすら覚える事が有ったが、人間として生まれた自覚すら無い単なる「物体」だと思う様になった。

そんな物体が他に対して迷惑をかける姿を観るが…現世、人間として生きる為の修行の場だと思えば単なる物体から人間に変わる為のきっかけとなる出来事だと思いながら眺めさせて頂いている。

本来、宗教者なんて存在は、先ず人間という自覚が有ってこそ就くべき存在だと思うが、物体としか思えない輩が法衣を纏っている時代なのだ。導く立場に在る人間が物体ならば導かれる人間も物体のままなのが道理である。

余談だが、修行寺を出た若い坊主から「厳しい修行を終えて来ました❗️」なんて言葉を聴く度、と本人に言いはしないが、「アナタは僅か数年で悟ったんか❓まぁこれからの生き様眺めさせて頂く…」なんて思う。殆どの場合、物体のまんまじゃん…なんてガッカリさせられる事の方が多い…(笑)

人間として生まれたならば先ずは「人間とはどんな存在で在るべきか?」を脳みそから汗が流れるくらい考え、ある程度の人間としての自覚をする事が肝要なのだ。まして人間としての生き方を説きながら実践するべき職に就いたならば尚更な話だと思う。

「時代に伴って人間の心が変わったから寺離れが進んで大変だ…」

なんて曰う物体坊主に会う度、

「人間の本質なんぞ変わっていない❗️人間としての自覚すら無い物体レベルに留まるアナタから離れているだけだろう❗️」

と思う。

坊主の話はさておき…自分は人間という自覚が有るならば、先ずは人間とはどういう存在で在るべきか?を自分自身に問う事をお勧めする。

問うた後「人間とは◯◯在るべき」と自分自身で思ったならば◯◯を実践する事。

現世、広大な大海を旅する様な人生を生きる一番基礎、前提とすべき「人間とは?」すら自分自身に問う事無く旅をしたところで同じ場所をグルグル巡って時間経過にて有限の人生時間終了となる。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。