宗教法人

来慶山忠暘院

「人生は自分がやりたい事をどうやってたら出来るか?を考えやってきた者が納得した終末を迎える」令和4年2月8日記

「人生は自分がやりたい事をどうやってたら出来るか?を考えやってきた者が納得した終末を迎える」令和4年2月8日記

「人生は自分がやりたい事をどうやってたら出来るか?を考えやってきた者が納得した終末を迎える」

周囲の人間の移り変わりを冷静に分析されてこられた人生の晩年を迎えた諸先輩方々が語られる言葉を直接聴かせて頂く機会が多いし、自分自身も現世人間に生んで頂き周囲を眺めさせて頂きながら生きてきて気がつけば50年以上時間が経過した。

諸先輩方々の生き方や仰る言葉の中から感じる事は、自分自身が自分の人生の主人公だと若い頃に薄々気づき、周囲との折り合いをつけながらどうやったら自分らしく生きられるかを実践されてきた方々は人生に対する悔いが少ないって事だ。

逆に悔いる話をされる方々は、若い時にその時代を支配する社会的に共有する価値観…いわゆる「フツー」という価値観を自分の中に入れ込み、岩盤の如く固定し、その呪縛から抜け出せない人間なのだと気づいた。晩年、過去を悔いる話ばかりを繰り返す様な事にならない為に、自分も参加しながら大勢で創った「フツー」という価値観に楽だからといって身を委ね固定してしまうと必ず後悔する晩年が待つのだ。

大体「フツー」なんてモノは日々変化する。そんな変化するモノをある時期の状態で固定してしまう事自体が如何に自分自身のそれから先の人生を縛り付ける事になるか❓という事なのだ。

悔いる様な残念な晩年を迎えるくらいならば、自分の与えられたアタマで日々考え現世生かされている間自分らしい人生を想像しリアルに構築するべきなのだ。

どうせ価値観を固定するならば、流行り廃りの早い「フツー世間様価値観」では無く、2000年近く時が流れても伝わり残ってきた人間にとって普遍的な価値観、仏教、キリスト教やギリシアローマ哲学、中国思想等々から価値観を学び固定すれば良いと思う。但、こう書いたところで自分自身で考えている様で、実は他から与えられる事に慣れた方には理解不可と思う。

単純な話、悔いる晩年を迎えたくなければ自分自身で早めにお考えあそばせ…くらいの話なのだ。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。