「人間として為すべき事を成す為の時期が巡ってきたと現世生きれば何一つ不平不満は起こり得ない」
犬やネコが周囲を掃除したり、煮炊きをし食事を作る姿を観る事は無い。人間で在るが故の作業だと思っている。
故に自分が家事全般をやるのは人間として現世生きる為の最低限の事をやっているだけの話で、家族の分もやるのはあくまで序でなのだ。
洗濯物が溜った(時期がきた)ので洗濯機を使い洗濯をする。(序でに家族の分も放り込む…)
腹が減った(時期がきた)ので食事を作る。(序でに家族の分も作る…)
仕事と呼ばれる事をやっている時だが、自分の場合和笑(おしょう)と名乗り僧侶をやっているが、それが仕事という意識は現在無い。一応世の中の慣いで書面に記す時、職業欄には先ずその他に◯を付け()には僧侶と書くので仕事は「僧侶」となるが…生きる為の生業としている気持ちは無いのだ。単に僧侶をやっているだけの感覚だが、一般の方々には解り辛い感覚だと思うので割愛させて頂く。
法服を身につけ僧侶という立場になった時でも為すべき事を成すべきカタチまで創り上げる時期、瞬間がおとずれたと自覚しているだけで経を上げさせて頂き、遺った家族に対して心の在り方を説かせて頂いている。
全てにおいて人間として為すべき時期瞬間がやって来て成すべき事をやっているだけの事で、自分にとって当たり前の事を当たり前にやっているだけなのだ。
「家族の為に…」とか「現在所属する会社組織の為に…」「世の中の為に…」なんて気負って思うからしんどくなり不平不満が出る。
全てを気負う事無く「人間として為すべき時期が巡って来たモノゴトに対して成すべくやる」それくらいの気持ちでやれば良い事なのだ。