宗教法人

来慶山忠暘院

「人間として生まれて飽きたといって途中で別の生き物に変われる訳で無い。ならば真剣に人間やるしか無い」令和3年11月18日記

「人間として生まれて飽きたといって途中で別の生き物に変われる訳で無い。ならば真剣に人間やるしか無い」令和3年11月18日記

「人間として生まれて飽きたといって途中で別の生き物に変われる訳で無い。ならば真剣に人間やるしか無い」

人間に生まれ叶う事叶わない事が有る。人生に飽きたところで「お気楽そうにゲコゲコ鳴いているだけで良いからカエルでもやるか…」そんな事を思ったところでカエルになれる訳でも無く…「ぼ〜っと立っているだけで良いんだから木でもやるかぁ〜」なんて木になれる訳でも無い。(但、カエルにしても、木々にしても浅い思慮で側から観るよりもずっと自分の与えられた生命に向き合っているとおもうが…)

ならばお迎えが来るまでは人間やる以外無いのだ。そんな単純な事すら考えず日々怠惰に人生時間を浪費し続ける輩を観ながら、人間が人生を生きる根本「人間とは❓」すら考えた事無い残念な状態なんだな…と思う。

その根本を理解しようとせず、自分以外の他人を導ける訳が無いと思うが、子育てに悩む親御さんの姿を観る度、自分自身が漠然とでも「人間とは…」という単純な問いすら考えていないんだから悩みから解放される事なんぞ有り得ないだろう…と思う。

他人がやらかし不快に思う出来事を削いでいけば「コイツ人間としてダメじゃん❗️💢」という出来事なのだ。何故やらかすか?単純な話、世間を不快にさせるやらかす輩は「人間とは…❓」を考えた事が無いし、たとえ考えたとしても「知っいる」つもりになっているレベルなのだ。

本当に知っているとは知っている事をリアルで実践していてこそなのだ。やりもしていない事を「それくらいの事は知っている」と自分の前で語ったならばその時点で軽蔑を込めて輩と呼ばせて頂く❗️

単純に本当に知っているのならばやれ❗️やっていないならば口を慎めって事なのだ。
やっと若い頃の修行寺時代、老師たちから怒叱られた意味を理解出来る様になってきた。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。