宗教法人

来慶山忠暘院

「何事も無い状態を持続する難しさを理解出来なければ上っ面の感謝しか感じられない」令和3年9月5日記

「何事も無い状態を持続する難しさを理解出来なければ上っ面の感謝しか感じられない」令和3年9月5日記

「何事も無い状態を持続する難しさを理解出来なければ上っ面の感謝しか感じられない」

日々、決まった時間の電車やバスに乗り当たり前の様に通勤通学する…
日々、テーブルに出された食事を当たり前の様に食べる…

日々、風呂から上がり洗濯された綺麗な下着に当たり前の様に着替える…

当たり前過ぎる様な日常を送っているが、そんな当たり前の様な何事も無い状態を持続するのにどれだけ自分以外の他人の方々のお世話になっているか?を想像する人間が減った。
人間劣化するとそんな当たり前が崩れた途端に文句を言うが、「お前の当たり前を維持する為にどれだけ周囲が努力しているか想像しろ❗️」と思う。
以前、日当たりを悪くしている木の枝を自分で伐採していたらその頃うちにいた輩に「がめつい…」なんて言われた事が有るが…有り余るほど財力が有るならばともかくうちは吹けば飛ぶレベルの法人なのだ。
「日々文句を垂れるだけで稼ぐ事が出来ないお前の毎月の給料捻出する為に少しでも支出を減らす努力している事すら解らない思慮の浅い輩…」
と判断した。
毎月とにかく在籍すれば給料が当たる…出来れば極力理由をつけて仕事はしたくないが出来るだけ沢山貰いたい…そんな輩だった。
そんな輩が「有難う…」とか「感謝します…」なんて口から言葉を出すのは自分の都合の良い希望が叶った時だけで…他に向けた有難うでは無く希望を叶えた自分自身に対して言っているだけの事だと理解出来た。人間という存在がどれだけ下劣になれるのかを具体的に観せ教えてくれ、そのおかげで随分と人間を観る目が養われた。そう思うと現在は本当に心から感謝している。
何事も無い状態を日々維持される為には本当に沢山の方々の努力無しにはなし得ないくらいなのだが、何事も無い当たり前を「昇華させた当たり前」として捉える感覚と「単なる当たり前」と捉える二種類の人間がこの世には存在する。
「昇華させた当たり前」を知る人間との過ごす時間は有意義な人生の時間で学びが多いが…「単なる当たり前」しか知らない輩との時間は単なる浪費時間となる。
そんな輩と浪費する時間を過ごす事自体、自分自身の人間として生まれ出た事に対し有限な人生時間への冒涜だと記しておく。

日々、決まった時間の電車やバスに乗り当たり前の様に通勤通学する…
日々、テーブルに出された食事を当たり前の様に食べる…

日々、風呂から上がり洗濯された綺麗な下着に当たり前の様に着替える…

当たり前過ぎる様な日常を送っているが、そんな当たり前の様な何事も無い状態を持続するのにどれだけ自分以外の他人の方々のお世話になっているか?を想像する人間が減った。
人間劣化するとそんな当たり前が崩れた途端に文句を言うが、「お前の当たり前を維持する為にどれだけ周囲が努力しているか想像しろ❗️」と思う。
以前、日当たりを悪くしている木の枝を自分で伐採していたらその頃うちにいた輩に「がめつい…」なんて言われた事が有るが…有り余るほど財力が有るならばともかくうちは吹けば飛ぶレベルの法人なのだ。
「日々文句を垂れるだけで稼ぐ事が出来ないお前の毎月の給料捻出する為に少しでも支出を減らす努力している事すら解らない思慮の浅い輩…」
と判断した。
毎月とにかく在籍すれば給料が当たる…出来れば極力理由をつけて仕事はしたくないが出来るだけ沢山貰いたい…そんな輩だった。
そんな輩が「有難う…」とか「感謝します…」なんて口から言葉を出すのは自分の都合の良い希望が叶った時だけで…他に向けた有難うでは無く希望を叶えた自分自身に対して言っているだけの事だと理解出来た。人間という存在がどれだけ下劣になれるのかを具体的に観せ教えてくれ、そのおかげで随分と人間を観る目が養われた。そう思うと現在は本当に心から感謝している。
何事も無い状態を日々維持される為には本当に沢山の方々の努力無しにはなし得ないくらいなのだが、何事も無い当たり前を「昇華させた当たり前」として捉える感覚と「単なる当たり前」と捉える二種類の人間がこの世には存在する。
「昇華させた当たり前」を知る人間との過ごす時間は有意義な人生の時間で学びが多いが…「単なる当たり前」しか知らない輩との時間は単なる浪費時間となる。
そんな輩と浪費する時間を過ごす事自体、自分自身の人間として生まれ出た事に対し有限な人生時間への冒涜だと記しておく。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。