「出来ないやれない理由を考える時間を、出来るやれる方法を考える時間に変え続ける」
考えてみたら何1つ手に持つ事無くほぼ無力な状態で現世に生まれ出て来た。その後は周囲の手を借りながら出来ない事を出来る事に変えてきながら現在に至っているだけの事だ。現在(いま)こうやってスマホを使い文字をポチポチ打ち込みながらネット上にUPする事も全てその延長なのだ。
そう考えれば「出来ない、やれない理由を考える事自体が自分の人生における可能性への否定」なのだ。否定すればその時点で終了となる。
よく人生の可能性を否定する事をクセにしてしまった人間を観るが、何年経ってもずっと立ち位置は変わらず身体だけが歳を取るモノだと思う事が多々有る。その様な姿を羨ましく感じるならば自分も真似させて頂くが、とてもそうとは思えない残念な姿にしか観え無い事から、極力影響を受けない様に距離を取らせて頂く事にしている。
人間という生き物は兎角自分の価値観を他人にも当てはめて考えるものなので「出来ない、やれない」事を先ず考えるクセがついてしまった人間と話したところで「出来ない、やれない」と考える事が如何に正しいかの理由を長々と聴かされだけになるのがオチなのだ。有限な人生時間の大いなるムダ時間は避けたい。
出来ない事が出来る様になり喜んだ記憶を誰しも当たり前として忘れ去る事が一般的とは思うが、生まれて寝たきり状態から寝返りをうち、ハイハイし…二足歩行まで成し遂げた喜びは格別だったハズだ。無論自分にもその頃の記憶が有る訳では無いがハイハイの目の高さが立ち上がる事で倍以上の高さから世の中を観た自分の中に湧き出た感動を想像するだけで出来ない事を為す事の素晴らしさを想う。
もう1度書くが、現在の自分の出来る事を1つ1つ精査すれば全てが出来なかった事が出来る様になった事だと解るハズだ。にも関わらずいつの間にか「出来ない、やれない」理由を探し始めるアホなクセが付き自分自身で残念ポンコツな状態に定着させただけの事だ。
そんな残念ポンコツな現在の自分と決別出来るのはあくまで自分自身しか無理なのだ。