「子供に厚底の下駄を履かしたところでそのうちチビて無くなる…」
親となり「同じ苦労は子供にさせたく無いモノだ…」と人間として心がまだまだ成長していない子供に高い下駄を履かせると見通せる景色環境を「この景色環境が当たり前」との勘違いを起こさせると気づいた。気づくまで「厚底の下駄を履かす事が出来る親が素晴らしい…」と勘違いして実践するアホな親父を全力でやっていたのだ。
冷静になって考えてみれば厚底の下駄を履かせたところで、人生を歩んでいれば徐々に下駄の底はチビる。30代にはチビるどころかボロボロになり素足になるだろう…
人生を振り返り10代後半に話す内容が大人びていた友人たちを羨ましく思った事が有るが、そんな友人たちが育った家庭環境を考えれば、大人と関わる時間が多く、同年なのに凄い差が有るモノだと錯覚させられたが、耳学問で覚えた事を語っていたのだだけの事だったと思う。耳学問で通用するのはお互い社会に出て数年くらいの時期なのだ。
昔、子供たちに「日本の東大の肩書き欲しければ大学から勝負せずともソコソコの大学出て東大の大学院目指せ❗️」なんて言った事が有るが…現在(いま)考えれば本当にくだらない事を勧めていた馬鹿親父だったと思う。
楽する事や本人の望みもしない実力以上のモノを身につけさせたところで先々本人が苦しむ事になる。
自分自身で徐々に創った高い厚底下駄ならばチビれば本人が気づき底を厚くする事も履き換える事も可能だろうが、親が履かせた厚底下駄はチビても気づかないだろうと思う。年齢が上がりある日ボロ下駄と成り果てた足元を眺め下駄を脱ぎ素足で歩く事を自分自身で決められたら素晴らしいとは思うが…殆どの場合そうはならないだろう。誰かが新しく下駄を用意してくれるのを待つか、ボロ下駄を眺め泣き出し、そんな下駄を履かせた人間を恨むのが関の山だ。
環境を整えてやる事はあながち間違えでは無いとは思うが、先回りし過ぎて整え過ぎれば子供の中に勘違いを生む。勘違いの修正には多大な時間と労力がかかるモノなのだ。
道を歩きチビ無い下駄は無い事を知る事…解らないならば現役バリバリの状態を保ち子供より先に死なない事をお勧めしておく。