宗教法人

来慶山忠暘院

「常に人間として在るべき姿を基準にモノゴトを精査して行動するクセをつける」令和3年11月5日記

「常に人間として在るべき姿を基準にモノゴトを精査して行動するクセをつける」令和3年11月5日記

「常に人間として在るべき姿を基準にモノゴトを精査して行動するクセをつける」

よく「生きる事は難しい…」そんな事を聴くし自分も以前はそう思っていたが、シンプルに削いで考えれば判断軸を「人間としてどう在るべきか?」と捉えれば難しい事でも無いと思う様になった。

宗教にしても削いでいけば創始者が「人間とは?」というそんな素朴な疑問から出発しているのでは?なんて思う。人間の知的レベルの低い時代ならば事細かい戒律を創り縛る必要が有ったと思うが、ほぼ満遍なくある程度のやって善い事、悪い事なんぞ共有された時代なのだ。

他人を不快にさせる事件だって冷静になって考えれば「人間としてソコまでやるか?」とか「人間として如何なモノか?」なのだ。逆に称賛される出来事は「人間として立派な行動」なのだ。

という事は各自各々が「人間とは?」という判断軸を心に構築しながら実践し続けていくしか無いのだと思う様になった。

「◯◯さんが言っていたから…」とか「◯◯に書いて有った…」「テレビで言っていた…」、「世間では…」、「フツーは…」…そんな言葉を聴く度違和感を感じてきたが、

詳しく人柄すら知らない◯◯さん…
テレビやネットの流しっぱなしでほぼ何の検証もしない媒体…
その時代によって価値観の変わる世間やフツー…

違和感自体が、そんな事を口にする人間として生まれながら自分自身で考え、行動出来る自分という存在を忘れ、人生を流されて生きているだけの次元の低い輩が語るくだらない戯言(ざれごと)を聞かされていたからだと気づいた。

自分で日々「人間とは如何なる存在か?」を考えそれを踏まえて判断軸として行動し、やった事に対して自分自身で責任を取る…それくらい腹を括って生きさえすれば別に他人からとやかく言われる筋合いは無い事なのだ。

あまりにシンプルな事にすら気づく事無く、ブログを通じて場当たり的な応用を説いてきた反省を踏まえ記しておく。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。