宗教法人

来慶山忠暘院

「思考を変えない限り同じ状況どころか善きも悪きも雪玉を転がした様に拡大し続ける」令和4年1月19日記

「思考を変えない限り同じ状況どころか善きも悪きも雪玉を転がした様に拡大し続ける」令和4年1月19日記

「思考を変えない限り同じ状況どころか善きも悪きも雪玉を転がした様に拡大し続ける」

「私ばかり何でこんな目に遭うんでしょうか…」そんな話を聴く度、かつての自分と重なる。
全て自分自身の思考に基づく行動の結果でしかないのだが、岩盤の如く固まった思考を変化させる事は並大抵では無理な話だ。
相談された以上、自分自身の体験に基づき話はするが、後は相手にお任せする事にしている。逸話に有る「水を飲ませる為、馬を川辺へ連れて行く事は出来ても飲ませる事は出来ない」のと同じ話なのだ。
世の中を眺めながら人間が悪しき事と思う抱える悩みなんぞ自分自身が招き入れているのが殆どなのだ。それを「アイツのせいで…」とか「世の中が…」なんて他に転嫁している以上、状況はますます悪化していく。
大体、思考が善理に適っていれば何事もスムーズに流れる。何事も無く平穏無事な状態とは自分自身の思考が善理の状態だ。その善理に適った思考を持続すれば少々凸凹しながら時間経過と伴に成長する。
スムーズに流れないとは善理から外れているだけの事なのだ。思考に悪理が少しでも入り込むと必ず詰まる。詰まるどころか日々泥水を溜めながらそのうち決壊する。それも決壊の度合いが回数を重ねる度酷くなっていくのだ。
その決壊を何度も何度も繰り返しても、自分の思考に何も非が無いと思い込んでいるのだから眺めれば単なる「頭にチューリップ🌷状態」なのだ。お迎えが来るまでどうぞおやりあそばせ…くらいの事だ。
一度、二度までならば時間を割いて話を訊くが、佛で無い人間の自分には三度目は無い。人間として生んで頂き有限な人生時間を与えて下さったご先祖の方々に対する愚弄と判断する出来事だ。自分で無くとも話くらい聞いてくれる人はいるから、他所にて治らない自分のチューリップの咲いたアタマを露呈し続ければ良い事なのだ。
相談すれば他人が自分を変えてくれるのでは無く、他人に相談する事で自分が気づき、気づいた自分が自分自身を変えるだけの事だ。その事に気づかない限り、他人の人生時間を奪い続ける迷惑人間でしかない。
他に対する思い遣りや配慮、想像力の無さ、自分自身への人生の想い…全ては想像力の足りなさくらいの事だが「言わなきゃ解らない人間は言っても解らない…」そんな匠の言葉が浮かぶのだ。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。