宗教法人

来慶山忠暘院

「想い描く理想とする生き方を日々実践し続けていれば自ずと結果はついてくると知る」令和3年11月16日記

「想い描く理想とする生き方を日々実践し続けていれば自ずと結果はついてくると知る」令和3年11月16日記

「想い描く理想とする生き方を日々実践し続けていれば自ずと結果はついてくると知る」

自分が理想として想い描く本来の僧侶とは、「日々托鉢に歩きその日頂いた食べ物で生命を繋ぐ…」そんな生き方なのだ。

但、そんな理想は釈迦が悟られた最初の頃の生き方で、後には篤信家から与えられた精舎で雨季には安居されたり、篤信家に招かれ食の供養を受けた事を知り、現代ならば現代の在り方を模索しアレンジして実践するべきだと考えている。

現在自分の場合、日々頼まれた供養に出向きお経を上げさせて頂き布施を得る。生命を存(ながら)えるだけを考えれば日々授かる布施の方が多いのだ。

そこで現在、その多い分を世の中の公を意識しながら還元する事を考え実践し続けている。別に立派な行いでも無く、あくまで自分が想い描く理想に近づけているだけの事なのだ。

江戸時代、寺が時の政権を担った幕府の社会統治の枠組み組み込まれ檀家制度という名の戸籍管理を担い、寺領安堵として土地を充てがわれ経済基盤が確立し、何の努力もせずとも収入を得たが故に僧侶が堕落し明治に入り廃仏毀釈をくらった事を思えば、現在はゆっくりでは有るが第二の廃仏毀釈が進んでいると思っている。

僧侶世界を眺めて質が下がり続いているのは現実なので廃仏毀釈も致し方無いと思いつつ、僧侶の考え方や生き方の基礎中の基礎を幼い頃から入れて下さった最後の禅僧と呼ばれた故、楢崎一光老師に対し申し訳無い気持ちが有る。

現在の世の中の大流で在る廃仏毀釈を押し止める気なんぞはサラサラ無いが、凡夫な自分レベルでも出来る事くらいは何かしら有るのだ。

非力では有るが、現世生かされている間完璧な無力では無い…と自分自身に言い聞かせ鼓舞しながら何が有っても眼を前に見開き顔を上げ前へ進む…

先日、鬼籍に入った実母の意にそぐわない事をする度、
「アンタさえ居なければ❗️💢」「アンタさえ死んでくれたら❗️💢」
という生存さえ否定される言葉を何度も何度も直接言われ続けた人間で有っても、鬼母の役に立てなくても世の中の役に立てる人間にくらいなれる事を人生を通じて実証する。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。