宗教法人

来慶山忠暘院

「自分という人間の思考行動の結果が現在(いま)の状態と素直に認める事がスタートとなる」令和4年3月28日記

「自分という人間の思考行動の結果が現在(いま)の状態と素直に認める事がスタートとなる」令和4年3月28日記

「自分という人間の思考行動の結果が現在(いま)の状態と素直に認める事がスタートとなる」

自分の置かれた状態現状の不平不満を言う人間に対して「何も解っていない残念な人間」のカテゴリーに収容する事にしている。

生活を供にする伴侶の不平不満ならば最終的にその伴侶を誰が選んで現在も一緒に居るのか?に帰結する。

所得の低さや職場の不平不満ならば現在の就いているその職を最終的に選んだのは誰なのか?に帰結する。

社会全般への不平不満ならば政(まつりごと)を動かしている政治家を誰が選んだのか?に帰結する。

全て冷静に考えてみれば自分に帰結する事ばかりなのだが、他に責任転嫁する事が楽だからと不平不満を言う事自体変な事なのだ。離婚する、離職する、托す相手を応援し選挙に行くか、法律に定められた年齢になれば立候補出来るのだから自分が政治家をやれば良い事なのだ。

自分で選択出来る事は多々有るのに何も行動する事無く周囲に不平不満を言うだけでは「いつか誰かが何とかしてくれる」そんな底レベルの人間像を自分自身でやっているだけの事だ。

自分自身で移動出来ない植物でも在るまいし、現在(いま)瞬間、立っている場所も自分の考えに基づき取捨選択して自分自身で選んだ場所に居る事にすら気づかない事自体が如何なモノかと思う。誰かに無理矢理首に縄をつけられて連れて来られ縛り付けられているのか?って事だ。全てのモノゴト冷静になって削げは自分自身に帰結する。つまりは自業自得の状態なのだ。

先ずはしっかりといろはの「い」を素直に認められ無ければ次に進む事も対処する事も無理な話だ。

単純に書けば「散らかっている自分の部屋は誰かが入って来て散らかしたのか⁉️」と同じくらいの話だ。先ずは自分の部屋は自分で散らかしている事を素直に認める事から始めましょうって事を長々書いてみた。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。