宗教法人

来慶山忠暘院

「自分に起きる物事、出来事全てを有難い事と捉え感謝し続けてみる」令和3年10月20日記

「自分に起きる物事、出来事全てを有難い事と捉え感謝し続けてみる」令和3年10月20日記

「自分に起きる物事、出来事全てを有難い事と捉え感謝し続けてみる」

「自分がする事」と「自分がされる事」の根本が見た目が大人と呼ばれるくらい現世で生かされる時間を頂きながら解っていない輩が多すぎるのだ。

「感謝」は他人が自分にする事なんて思い込んでいる様な輩に遭遇すると、

「現世で本来出会ってはいけないアンタと出会う事で、世の中にはとてつも無い勘違いしている、みてくれは人間だが異次元の物体が存在する事をリアルに教えて下さり有難うございます…」

と心から感謝しながら思う。

あくまで感謝なんてモノは他人からされる事では無く「自分が他に向けてする事❗️」なのだ。される事なんて思い込んでいるからいろいろなところで軋轢を起こす。そんな道理の根本すら解っていない…残念な状態なのだ。

書いて有る意味が解らないならば、とりあえず「自分か感謝される」のでは無く、どんなムカつく出来事でも全てを「自分が感謝する」に変換し、そして感謝し続けてみる。最初は意味が解らず???かもしれないが、そのうち少しずつ気づきが始まりそのうち納得出来る様になる。

自分主体にアタマの中を構築し、世の中全て「自分が他にする事」では無く「他が自分にしてくれる事」だと固定している輩に対して残念を通り越して哀れにすら思う事が有るが、自分自身で気づかない限り無理なのだ。眺めていると時間経過に伴って細っていく姿を観るが…「自滅する前にお気づき下さい…」と手を合わせさせて頂き距離を取らせて頂く事にしている。

自分はそんな輩とは、

「邪見の輩(ともがら)には群すべからず…」
邪(よこしま)な見方、考え方しか出来ない輩とは群れるな、関わるな❗️

と説かれた祖師の言葉を胸に抱き、距離を置きながら僅かな現世での数十年を過ごすと決めている。

但し、縁が有り尋ねられた時には自分の知る全てを余す事無く伝える和笑(おしょう)としての責任感くらいは持ち合わせている事も付け加えて書いておく。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。