宗教法人

来慶山忠暘院

「自分の非を認められない自己中の輩は渦巻きの中心に向かい加速しながら堕ち続け自滅する」令和3年12月21日記

「自分の非を認められない自己中の輩は渦巻きの中心に向かい加速しながら堕ち続け自滅する」令和3年12月21日記

「自分の非を認められない自己中の輩は渦巻きの中心に向かい加速しながら堕ち続け自滅する」

自己中で悪い出来事は他に転嫁するクセをする思考を身につけると、堂々巡りならばまだしも鳴門の渦潮の様に加速しながら中心の点に向かい堕ちていくモノだと思う。

人間は神や佛では無く必ず間違える生き物なのだ。日々、起こる出来事は善きも悪きも自分自身の至らなさに気づく為の反省のタネとする事で内面の成長が有る。

悪き事ならば尚更だが、善き事で在っても更に善き方法…自分自身を善き方向に進める事が出来ないか熟慮し実践し続ける事が肝要な事だ。

一般的にそんな事に気づくまで最初は誰しも渦巻きの流れの早い中心に近い場所に居る事が多い。気づいて善に向かって意識を変化し渦巻きを遡り始めても中心に堕ち向かう急流に押し戻される感覚に戸惑うが、それでも諦めず続けていけばそのうち逆流は緩やかになってくる。

最初、自分自身が渦巻きの中心に居るので、次々に困難な状況に陥るのは中心へ向かう急流にのって次から次へと中心に吸い込まれていく悪意を持つ輩や物体に対して対処せねばならないだけの話。挫けずひたすら善への道を探求し歩み続いていれば渦巻きの外側の流れの緩やかな場所に到達する。その頃には中心に向かい流れ始めた悪意を持つ輩や物が自分に向いて流れて来たとしても流れがゆっくりだから対処しやすくなる。

人格者と言われる方が常にゆったりしているのは渦巻きの外側の流れに居ながら、さらに緩やかな場所に向かい続けているだけの話で、常に争いや困難な状況に居るのは渦巻き中心の近い場所を彷徨いながら、急流にのって流れてくる悪意を持つ輩やモノに対処せねばならない事と、自分自身が中心の最終地点に吸い込まれる怯えによる事に起因する。

同じ人生の時間を与えられながら差が生じるのは気づいた人間は渦巻きの中心を離れ遡り外側の緩やかな流れを目指し昇り続けただけの話でしかない。

難しい話でも何でも無く自分の心の在り方で渦巻きの場所はいくらでも変化させる事は可能なのだ。

やるやらないは個々にお任せするとして…自分自身で選んだ場所に居るのだからグチを垂れたりするな❗️と自戒を込めて書いておく。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。