宗教法人

来慶山忠暘院

「騙されたのでは無く最終的に誰がそんな輩を信用する判断をしたのか?だけの事」令和3年8月31日記

「騙されたのでは無く最終的に誰がそんな輩を信用する判断をしたのか?だけの事」令和3年8月31日記

「騙されたのでは無く最終的に誰がそんな輩を信用する判断をしたのか?だけの事」

被害者面して「◯◯に騙された…」なんて以前の自分は考えていたが冷静になれば、そんな輩を信用し最終的な判断をしたのは自分自身という事に気づいてから過去の未熟な自分に腹が立つ事は有っても別に周囲に対して責任を転嫁する事は無くなった。
自分の思考を精査する事で同じ轍を踏まぬ様心がける様になったからか生きる事が楽になった実感が有る。
人生において人間関係に起けるほぼ全ての出来事は自分自身の思考による判断行動に帰結しているだけの事なのだ。騙した相手では無くそんな輩を信用出来ると判断した自分の心を恥じるべきなのだ。
時には「国に騙された…」なんて事も起こるが、歴史を振り返ればそんな事はあっちこっちに事例は転がっている。国といえども所詮は人間が動かしている事を考えれば全て正しい判断なんぞ出来る訳でも無い。「国の決めた事だから間違え無い…」なんて考えている事が自体がアホなのだ。数十年前に皇居前で平伏した写真くらいは観た事が有るハズだが…相変わらずの思考しか持たない事自体残念なのだ。
個々の相手だって所詮は人間なのだ。騙すつもりは無くとも結果的にそうなる事も起こる。自分自身が信用出来ると判断している相手が誰かを紹介して来た場合などがそうだが…紹介された輩がクセ者という事が有る。
一度目は致し方無いとも思うが二度目は信用していた人間もひっくるめて信用に値しないと判断すれば良い事だ。いとも簡単に自分という人間フィルターをクセ者に通過させる相手はまだまだ思慮が浅いと判断すれば良い。
常に自分自身の心を常に善を意識しながら磨き、同じ様な価値観を持った人間との交流を深める。人間で有るが故に心のスキを突かれる事も想定しながらにはなるが、そんな他人を騙す悪人ばかりでは無い。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。