宗教法人

来慶山忠暘院

ストレス社会やらを生きる方々に…

ストレス社会やらを生きる方々に…

日々、心病む方々が増加する時代で有る。

根本の原因を考えた時「やりたくない事をやって(やらされて)いる事」にたどり着く。
若い頃ならば、親がうるさいのでやらされる、
「点数を上げる為だけのやりたくも無い勉強…」
そんな時期を過ぎ、歳が上がれば、
「金を稼ぐだけ為のやりたくも無い仕事…」
やりたくも無い事を嫌々続けていれば心を病む事は必定なのだ。
「そうは言われても…現代社会を生きる上で成績は良い事にこした事は無く、仕事をしなければ明日の生活も成り立たない…」
そんな事を言われそうだが…
そんな呪縛にも似た状況からどうすれば抜け出す事が出来るか?なんて事になる。
「自分自身を主体としてモノゴトを組み立てた考え方をする事」
それだけの話で有る。
普段の1日を考えても、時と場合に応じて誰しも目まぐるしくポジションが変わる。
変わる度に「自分だったら…」と想像し目指す理想の自分に自分を当てはめる。
自分の場合、
嫁と対した時は旦那で在るから、
「自分だったらこういう旦那が嬉しい…」
と想像する旦那になり、
子供と対した時は、
「自分だったらこういう親父が嬉しい…」
とあくまで自分を嫁や子供に置き換え自分が理想とする自分をやるだけの事だ。
嫁や子供の性格をなんぞを考慮し、それに併せたならば主体は相手になるので「やりたくも無い旦那」で在り「やりたくも無い親父」になるので注意が必要なのだ。
日中は職業が坊主なので、
「自分だらこういう坊さんにお経をあげてもらったらが嬉しい…」
と思う坊さんを目指す。
友人とまみえる時は、
「自分だったらこういう友人とならば愉しい時間を過ごせる…」
と思う理想の友人の自分を目指す。
あくまで自分主体で、その瞬間、立場において自分が想う理想に近づく努力をし続けているだけの話だ。
会社の組織に属するならば、部下を持つ立場になれば自分が想う好きな上司になるべく努力すべきだし、上司に対しては自分が好きな部下になれば良い事なのだ。
別に「相手に併せた何の考えも無い人間になれ」と言う話では無く、「自分だったら…」という延長の上で成りたい自分になれば良い事なのだ。
「自分が成りたい事」のとは、つまり「自分がやりたい事」と同じで在るからそこに心を病むストレスは存在しなくなる。
子供の頃の嫌々やる勉強だって、
「何も知らない…「馬」なのか「鹿」なのかも見分けられないそんな人間と友達になりたいか?」
って言う事なのだ。
自分だったら自分が知らない事をいろいろ知っていて、余す事無く教えてくれる人間と友達になりたい。だから学も必要な事なのだ。
最終的に自分で選んでやっている錯覚をするが、主体は相手に有る事に気が付けるかどうか?なんて事なのだが自分自身でモノゴトを考える事を放棄した人間には解らない…
解らないから「ストレス発散❗️」なんて言いながら酒を飲んで…挙句呑まれてドツボにハマる…
せっかく人間に生まれたのだから生かされている間にストレスなんぞを感じるそんな生き方の根本を読み解け❗️
って事なのだ。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。