宗教法人

来慶山忠暘院

ブログの一文から…

ブログの一文から…

「女性」とは

共に過ごし、共に分かち合い、共に喜び、共に育て、共に笑いあえて、自分の考えをはっきりと持ち、臆せず言うことができ、且つ意見や考えの違う人と人とを繋げて調和させる人

「女の子」とは

自分の思い通りにならないと悲しがり、怒り、泣き、意見や考えの違う人は自分の周りから排除し、ワガママを言い、でも人から嫌われることを恐れ、共感を求めて群れる人

土岐山氏がブログに書いておられた言葉に思わず頷いた。

最近耳にする「女子会」という言葉に違和感を感じていたが個人的に妙に納得する事が出来た。群れた「女の子の会」で有る。

歳を重ねてしまった「女の子」は多数観受けることができるが「女性」となると絶滅危惧種の時代で有る。

最近増えている、元来男で在っても「女の子化」している「一応男」にも当てはまるのではないだろうか?

「女の子」タイプの人間は「自分の都合」で人間関係を構築している姿を観て取る事が出来る。あくまで自分の都合なので人間関係が長続きしない。一見、続いている様に見えても従属関係で成り立っている。

世間話程度の「会話」は出来るが、お互い人間力を高め合う「対話」は成立しない。現在(いま)の状態に不満を言いながらも満足しているので人間的成長を与えてくれる様な対話する相手を選ぶ事が無いので精神的な成長は望むべくも無く、悪戯に年齢を重ねていくだけで在る。

更に厳しい書き方をすれば、そんな「女の子」や女の子化した一応男は「周囲の力を削ぐ存在でしか無い❗️」と言い切れる。関わる他人の持つ熱量や人生の時間を容赦なく奪い、自分の為に消費させる事には長けているのだ。

時々、そんな力を削ぐ相手に、力を削がれながら生きている人間に出会うし、自分自身もそういう力を削ぐ相手と縁が出来る事が有るが、

「本来、現世、娑婆世界は理不尽な環境で人間的完成を目指す厳しい修行の場で在る…」

と再認識させられる思いになる。

土岐山氏のブログの一文からそんな事を考えながら…

自分がまだ精神的に「女の子化した一応男」だった頃に「男性」となる様、良い刺激を与え導いて下さったのは本物の「男性」「女性」の諸先輩の存在だったと今更ながら気づかされた。

本当に本物の「男性」「女性」の諸先輩方に心から感謝しか無い。

感謝と同時に、導いて頂いた恩に報いる自分なりの生き方を模索し続けていかねばと強く思っている。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。