宗教法人

来慶山忠暘院

モノゴトを観た時、道理を読み解いた「昇華した当たり前」まで考え抜くクセをつける。令和3年9月3日記

モノゴトを観た時、道理を読み解いた「昇華した当たり前」まで考え抜くクセをつける。令和3年9月3日記

「モノゴトを観た時、道理を読み解いた「昇華した当たり前」まで考え抜くクセをつける」

昨日の続きになるが、「昇華させた当たり前」と「単なる当たり前」には雲泥の差が存在する。
「昇華させた当たり前」とは目の前にリアルに横たわる偽り無い真実(モノゴトの道理に沿った結果)を素直な眼で観、そこに至る経過をいろいろな角度から検証しながら遡り納得する「当たり前」の事だ。
日々、1つのモノゴトを捉え「昇華した当たり前」にまで繰り返すクセをつけ続けられるかどうかで人間的な深みの差になる。熟した存在の人間となるかどうかの差で有る。
多様な角度から検証する為には総合的な知識が必要となるので知ろうとする好奇心が必要となる。基礎学問+本物に触れ続ける状態を意識し実行せねば難しい。
「昇華した当たり前」でモノゴトを捉えられる様になれば幾つもの連なる奇跡にも近い出来事の深い意味を捉える事が出来る様になるから「当たり前」が自ずと「有難い事」に変化し全てが感謝に変化する。
結論から書いてしまえば「感謝」を知らない輩は「昇華した当たり前」では無く何を観ようがどんな出来事に遭おうが「単なる当たり前」としか理解出来ない残念な存在だと言い切れる。
どうせ有限な人生を歩むならば残念な輩と時間を浪費するより熟した感謝を知る人間と時間を過ごす事をお勧めする。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。