宗教法人

来慶山忠暘院

信を意識する事…

信を意識する事…

個人的に好きな語に「信」が有る。

 

信用…信頼…信義…等々、熟語で有っても「信」の字は人を介して成り立っているからよけいに好きなのだと思う。
人の世を生きるとは簡単に言えば「信」を意識すれば良い事だ。
「信」を失い…
かつて大企業と呼ばれた会社の社長の会見する姿…
少し前までアイドルと呼ばれた人間が泣きながら会見する姿…
テレビなんぞを通じて、さらされる人間はごく一部では在るが…全てはやらかした事を「信」のつく言葉に「不(あらず)」を付ければ、殆どの「何故?」が読み解けてしまうモノなのだ。
若い人間がよく使う「金が無い…」という言葉もまだまだ社会的に「まだ信用、信頼」が無いだけの話のだが…
端的に説明すれば「金」という部分に「信用」や「信頼」を当てはめれば理解しやすい。
つまりは…
「自分は金が無い…」=「自分は信用(頼)が無い…」と言っているだけの話なのだ。
「金が欲しい…」なんて言う人間は「信用(頼)が欲しい…」言っているのと同じなのだが…
「自分には信用(頼)が無い」と公言しているにも等しい事を理解していない人間が多すぎる。
若い時ならばいざ知らず、其れ相応の年齢の人間がへっちゃらで口にする姿を観訊する度、言葉は悪いが、
「信を得る事を怠って生きてきた、病気をしなかっただけの歳(よわい)を重ねただけの人間…」
と判断される恐れすら有る。哀しいかな…自分が何を言っているのかを理解している人間が世の中には少なくない現実が有る。(大丈夫か日本⁈)
モノの道理を説く事が坊主、和笑(おしょう)の仕事の責務とは思うモノの…
ここまで書いて多分、一部の方は和笑(おしょう)の語彙力の無さゆえ「金の無い事は恥ずべき事」と取られる方もおられると思うが…
信用、信頼を得ている人間は本来あくまで道具で有る「金」という道具にさほど困る事も無いという事なのだ…
もっと単純な話をすれば「ケガをする可能性の高い刃物を信用信頼のまだ無い幼い子供は手に入れる事は出来ない」くらいの話と同じ事なのだが…
世の中「馬」だか「鹿」だか見分けられ無い人間が増えた現在…語彙力乏しい現在(いま)の自分には、これ以上の説明は不可で有る。
ゆえに、くだらない発言をし誤解されぬ様に気をつけながら…煩わしさを感じたら山に入る事に決めている。
日々「信」を意識して生きていく事…
「信無くば立たず…」
本当に良く出来た言葉で有る。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。