無機質な道具や機械で在っても生命(いのち)と捉えて扱えるかでその人間の質を観て取る事が出来る。
モノを壊すという事は生命と捉えきれないが故に、その無機質なモノが発する「痛い…」と叫ぶ声なき声を聴き取る事が出来無いだけの事なのだ。無論、モノを粗末に扱う事も同じだといえる。
「全ての「モノ」「コト」を一つの生命(いのち)と捉えられているか?」
それが本来最も重要な事なのだが、無機質なモノに対し生命と捉える事の出来る人間は本当に少数なのだ。
金という道具もそもそも本来、無機質な紙切れでは在るが生命と捉え、活かしきる事で輝きを増す。解っている人間はそんな無機質な紙切れの生命としての活かし方を知っているくらい事でしか無いのだが、解らない人間は「格差…」などという言葉を使うくらいで、人生の時間は平等に頂いている事にすら気づか無い…
こうやって使わせて頂いている言語も生命と捉え、活かしきる事が大切なのだが、活かすどころか相手を傷つける心を壊す道具として振り回す人間が多い世の中で有る。
全てのモノ、コトを生命と捉え、活かしきってくれる人間に本来無機質なモノ、コトが集っている事に気づかない人間が多い…
そんな事に気づいた人間が、
言っても…
観せても…
全く理解出来無い人間が増殖している世の中では在るが…
本当に二進も三進もいかなくなれば少しは気づく人間も出てくるだろうと思って今日も山からそんな娑婆世界を眺めている…
横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。