宗教法人

来慶山忠暘院

前回の続き…

前回の続き…

前回書いた、

 

 

「人間の営みなんぞは、日々、自分自身で蒔き続けている種が実りの時期を日々むかえて収穫しているくらいの事でしかない」

 

 

そんな事に気づいてから、日々自分の行動や言動を意識するようになった。

 

 

日々、自分自身で「善」「悪」の種を蒔き続け、確実に善には善の、悪には悪の実が生るならば善の種を蒔き続けていけば良いだけの事なのだ。

 

 

悪の種を蒔いて悪の実りを迎えた時に修正する事は非常に力と時間を取られる。日頃の手入れを怠った風呂桶の湯垢を取るのと同じレベルの話なのだ。

 

 

更に、気づきながらやらない事とは、本当は気づいていない事と同じなのだ。

 

 

まるで子供が親から注意された時によく言う、

 

「わかってるって❗️💢」

 

 

などと言い返しながら何もやらないレベルの話なのだ。年齢や身体の大きさに関係無く、精神レベルがいつまでも子供のままでは単なる人生の時間の浪費でしか無い。

 

 

その様な訳で、日々の暮らしの中、自分なりに意識しながら善いと思う種蒔きを心がけている。

 

 

自分が行う善い種蒔きの基準とは、行う行為が、

 

 

「あの世に逝かれ仏となられた方々が喜ぶか?悲しむか?」

 

 

「自分の私心、私欲を挟み込んでいないか?」

 

 

くらいの事でしかない。時々、無意識に私心私欲を入れてしまい失敗する事も有るが…「自分はあくまで仏様や神様では無く単なる凡夫の人間だから…」反省しながら、その都度修正を心がけている。

 

 

日々、善い種蒔きを心がける様になってから、自分自身に起こった変化は、

 

 

裏表無く生き(かされ)ている感覚になり、誰と会っても全く動じる事が無くなった。(例えるならば、素っ裸でも、究極の鎧を纏っている感覚で有る)

 

 

自分より他を思いやる方との出会い、ご縁が増えた。

 

 

他を思いやる人間に囲まれているおかげで日々穏やかで愉しい日常に変化した。

 

 

自分自身が実践してみての実感で有るが、仏典に記された内容には偽りが無いものだと今更ながら思う…

 

 

今思えば、成長していく過程で、単純な話を複雑に考えるクセがついてしまい子供の頃には見えていたハズの本質が見えなくなっていた。

 

 

グルグル巡って自分は後8年ほどで還暦を迎える…

 

 

この先、還暦まで生かされるならば、この泥田に例えられる現世、人間界での修行をこなしながら人間的成長を目指したい…

 

 

正直に書けば、生まれてからの全ての出来事が現在(いま)の自分を創る為に必要な事ばかりだったと思いつつ…意味有る大回りをし過ぎた感が有る…

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。