宗教法人

来慶山忠暘院

子供たちから学ぶ…

子供たちから学ぶ…

寺子屋に来る年齢学年もバラバラな子供たちや子供たちと時には一緒に交わり遊ぶ大人も楽しそうに過ごす姿を眺めながら…何で楽しい時間なのか?を考えていた。

 

自分なりの結論は集団で遊ぶ「缶蹴り」や「ドロケー」の時間の中では「◯◯学校卒…」「◯◯会社勤務…」「役職の肩書…」「年収◯◯円…」等々…大人になると無意識にだが意識してしまう差や序列がその遊びの時間の中には存在しないのだ。

 

遊びの中で序列が無いと秩序が崩れるか?と眺めていると崩れない。オニになればオニをやる…誰しも自分の与えられた役割を務めている。肩書きや序列は無いが自分の役割を果たす事だけに集中している間には変な気遣いや気疲れは無く観ている方も楽しい時間となっている。

 

たまにそんな子供たちの遊びの間でもトラブルが発生するが、遊びのルールに対して年齢や学年等の序列を表面に出してルール変更をしようとしたりする場合や、家で入れ込まれた大人世界の「月の小遣いが◯◯円…」とか「親の職業…」「自宅の大きさ…」などの価値観や感覚をその場に持ち込み自分が優位に立とうとして周囲から拒絶される事から発生している。問題が起こった時、最終的にそんな価値観や序列は拒絶され、多数の意見でトラブルは収束する事が多い。

 

そんな姿を観ると権威や肩書きや序列なんぞに価値が有り無条件に従わないと秩序が崩れるモノだと考えるのは、大人になる過程でいつの間にか擦り込まれた錯覚でしか無いと子供たちから教えられる。

 

冷静に考えればそんな序列に価値観を持ち他人に対して自分の立場を振り回し強要する人間や長いモノには巻かれろとばかりにオベッカを言い忖度する人間で素晴らしい人格者に会った事は無いし、仕事先でもそういう価値観の方が居ると気疲れする時間になると気づいた。

 

自分の周囲の素敵な生き方をされている方々は社会的に高い地位、年配者で在っても自分より一般的にいう社会的な地位が低く若年者などの周囲に対し、人間的尊厳を認めながらお付き合いをし、自分自身は淡々と自分のやるべき役割りを果たしているだけの感覚だと今更ながら気づいた。

 

コロナのおかげで寺子屋に来る子供たちの世界を普段以上に観せて頂き、これから先の目指すべき自分の姿を学ばせて頂いた。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。