集悠庵の近くには小川が流れている。
その小川の淵から道路までの雑木、竹藪を開いて道路の日当たりを良くしようと伐採している。
時々、小川に伐採した木々の枝が落ちるのだが…
都会の土木工事よろしく、2mほど淵から下がっているのでハシゴが必要となる。
そんな落とした木々を長靴を履き水に浸かり拾いながら、
「川上に住まう(存在する)人間は下流で住まう人間を想い水を汚してはならない…」
そんな事を考える。
時間軸で考えるならば、現在(いま)を生かされる人間はこれから生まれてくる人間にとって上流にあたる。
川の上流にあたる現在(いま)を生かされている上流に人間が、自分本意だけに生き、水にあたる心を汚し、ゴミの様なモノを下流にあたる未来の人間に流したならば下流に住まう(生きる)未来の人間はどの様な気持ちになるのだろうか…
単純に説けば…
飲もうとした水に上流から流されたゴミが漂っている…
飲まなくとも、水面を眺めたらゴミが漂っている…
生まれた時から流れる川にはゴミが漂っている…
そんな自分たちが流したゴミが浮かぶ中で孫子を住まわせたいのか…
そんな単純な事なのだ。
現在(いま)を生かされる人間は常に、川(時間軸)の上流に住まう自覚を常に持ち続ける事が大切だと記しておく。
横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。