宗教法人

来慶山忠暘院

心の成長なんてモノは…

心の成長なんてモノは…

過去だけを見つめその事自体に執われ続けている方々を見受ける事が有る。

 

 

人間の判断基準はあくまで過去で有るから致し方ないとは思うものの…

 

 

仏教を開かれた悟られた釈迦では在るが、伝記に記される過去だけを眺めると王となる立場を或る日投げ出し、妻子を捨てている。

 

 

責任放棄も甚だしい訳だが…

 

 

その後、悟って仏陀となった釈迦に対し、過去の問題行動を持ち出し攻め続けた人間もいたのでは無いか?…そんなくだらない事を想像した時、過去を引き合いに出し責め続ける人間の心の器の小ささを想う。

 

 

人それぞれ、人間として生きる上で数々の過ちを犯す…過ちを犯し…反省しその出来事を糧として日々心が成長し続けているのだ。

 

 

人間の心の成長の過程では、出来事自体は違うものの、同じ様な心の経過を辿る…

 

 

その人間が成長していく為には致し方ない事なのだ。

 

 

それは自分自身も体感心感した事だし…自分がこれから歩む人生の手本としたいと思う諸先輩方々と接し、話をうかがう中で諸先輩方も同じ様な経過を辿って現在に至ったと感じる事が多いのだ。

 

 

本来、他人の心の成長過程で致し方無くやる過ちを諭す事が出来るのはその道を通過した人間だけなのだ。

 

 

自分自身の心の成長過程で心の底から感じ取った「心感」が無い人間が、他人の心の成長過程に伴う行動を眺めたところで理解する事は無理で有る。

 

 

無理どころか、下手すれば自分の都合の良い小さな枠に他人をはめ込む事で他人の心の成長を阻害するくらいがオチで有る。

 

 

もう一度書くが、自分自身で体感、心感した事の無い、知らない事を他人に教え諭す事は不可能だ。小さな枠にはめ込む事で相手の成長を阻害するか、その小さな枠を壊されてオタオタするのが関の山で有る。

 

 

悟りきった釈迦クラスの人間ならば別だが、そうで無いならば先ずは自分自身の心を成長をさせてから他者を諭すべきなのだ。

 

自分自身、心底理解出来ていない事を他者に教え諭そうとしたところで上滑りになり他者の心は動かない。

 

 

但、こんな事を書いてはいるものの…

 

かくいう自分自身も今現時点での成長過程の世俗に生きる凡夫…愚僧の1人で在る事を書き加えておく…

忠暘院

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