宗教法人

来慶山忠暘院

末代まで汚点を遺さぬ様に…

末代まで汚点を遺さぬ様に…

何かしら閉塞感から抜け気持ちが少々軽くなった感じを受ける。別に武漢ウイルス(通称コロナ)が消滅した訳でも無い…削いで考えれば非常事態宣言が解除されて各自各々の心が変化したのだ。

 

個人的にだが、何かしら事が起こり世の中に世俗意識の大流が出来ると感じた時、一方的に大量に流され消費されるマスコミ報道を出来る限り遮断し距離を保つ事にしている…

 

別にマスコミが嫌いでは無く有事と呼ばれる状態になると「一方的に誰かの主観をいれた情報を垂れ流すだけで最終的に誰も責任を取らない」そんなマスコミ報道に時間を割く必要を感じない、無責任な相手からの影響を受けて心が染まらない様に自衛しているだけの事なのだ。

 

必要な情報は普段から構築している人間関係の中で、その事に長けている方々から教えて頂く事にしている。自分の友人は無責任な方が居ないので知りたい事を的確に私見も添えて教えて下さる方々ばかりだから有難い…

 

信頼出来る複数の相手から、いろいろな角度から観た情報を得て、自分なりの最終判断を心がける…

 

本来、自分の人生を生きるとは他に全てを委ねるモノでは無く最終判断は自分自身で下すべきだと思っている。「テレビで◯◯って言っていたから◯◯する」「新聞に◯◯って書いて有ったから◯◯する」そんな話を聞く度、「テレビのコメンテーターとは個人的に仲良しなんですか?」「新聞記事を書いた方とは…」なんて言いたくなる時も有るが、大流を押し留めるより距離を保つ事が力を削がれない事を知っている。

 

現代は情報多寡の時代で在る…スマホが有れば手元に情報はいくらでも手に入るが…ほぼほぼ誰も責任を取らない無責任、つまりは意味の無い情報なのだ。普段ネットのニュース欄を眺めているとテレビやラジオで有名人が喋っていた事を文章化した事がニュースとされる記事は「ニュースとは?」「情報とは?」と思う事が多々在るのが現実なのだ。そんな情報とは呼べない内容にヒマな時ならばまだしも、有事の時にまで巻き込まれ右往左往して有限な人生の時間を浪費する事は、人間として生を受けながら、生命を繋いで下さった先祖や生まれてから出会って諸々教えて導いて下さった方々全てに対して失礼な事だと思っている。

 

以前、大東亜戦争中の、若い僧侶達が集団で真剣に竹槍を突く古い写真を観た事が有るが…その時代の老僧の指示に従っただけの話とは思うものの、指示した老僧にしても従った若い僧侶にしても自分でモノゴトを考える事を放棄すると末代まで汚点を遺すモノなのだと一枚の写真から学んだ。

 

出来るならば50歳を越えた後くらい末代まで汚点を極力遺さぬ様に、現世を生きたいと思っている。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。