現在取り組んでいる里山の再生、再生エネルギーへの取り組みは、あくまで大量に石化燃料を消費し、1つの事故で何世代にもわたり先祖代々暮らしてきた故郷にすら戻れない状況になる原発から作られたエネルギーを消費し続けてきた事に対する、後から生まれた(これから生まれくる)方々への贖罪なのだ。
前にも書いたが、贖罪を語るならば無償ででも取り組む必要が有る事柄なのだ。
以前、とある企業が再生エネルギー参入を目論み試算したところペイしない為、株主の理解を得るのは不可能だと断念した話を会社の命を受けその試算を行った本人から直接訊く機会が有った。(現在その企業は再生エネルギーで作られた電気を買っている。)
株式を公開する企業で在る以上致し方ないとは思いつつ…現在の食べすぎで病人が続出するくらい歪んだ繁栄の世の中を創った事に対して、次世代の為にもう少し取り組め無いものかと正直感じたのだ。
会社組織を構えるとは「公(おおやけ)」で在る。公の冠を頂く以上、社会に対して責任を担う。社会的責任を真摯に株主も含め考える時期に来ていると感じている。(最近、経営者の思慮の浅さか…社会的責任を放棄している会社が多すぎる感が在るが…)
そんな公の中でも現在、自分が預かっているのは公(おおやけ)の中でも公の極み、浄財と呼ばれる布施を根本と成り立っている寺で在る。社会的責任は重大なのだ。
托された浄財を考えられるだけ考え、更に浄財として社会に還元させる責任が有る。
そんな考えの延長での里山再生…微力ながら再生エネルギーへの取り組みなのだ。
時々、「綺麗事を言い過ぎる…」なんて指摘される事も有るが、坊主が綺麗事を言わずに誰が言うのだ❓で有る。
言ったならばやれば良い事で、自分がやりもしない事は他人に対して言っていないハズだ。言うだけならば誰でも言える…言ってやらないのは単なるウソつきでしか無い…
利益の「利」にかなう事ならば、馬なのか鹿なのかすら見分けられない人間でもやる…
理益の「理」にかなう事をする事が本来人間として生命を頂き、得度の因縁を頂いた坊主としての役割りだ。
自分は坊主の在り方を、側付きをさせて頂いた高僧と呼ばれる老師方に沢山直接教えて頂いた。
お世話になった方々に教えに報いる事も坊主として…人間としての務めだと思っている。