宗教法人

来慶山忠暘院

茶室にて…

茶室にて…

道端に生えている雑草にも意味(起承転結)が有りその場所に存在する。

 

まして人的なモノに関していえば関わった人たちの遺した意味が在る。

 

 

常に、誰か人間の意思で「作られたモノ」、「その場所に置かれたモノ」を眺めた時、作り手の想いや置いた意味を自分なりに読み解く事にしている。

 

 

そんな事を考える様になったきっかけは修行中、修行寺の住職の次の権限を持つ首座(しゅそ)という役を務めさせて頂いた時に遡る…

 

 

まだ思慮が浅い本当の若僧だった自分が与えられた権限を使い、修行寺の中で気がついた事を正す感覚で一部改革をしたのだ。

 

 

一部分の改革とはいえその後待っていたのは公務の遅延と混乱だった。

 

 

無駄としか思えないやっている事…

 

置いて有る物の場所や位置…

 

 

そこに存在するモノゴト全てに歴代住職や修行寺で生活されてきた諸先輩の叡智の結晶が詰め込まれている事を思い知らされ、自分の思慮の浅さに思いっきり凹んだ。

 

 

そんな経験から特に人的創造物…何故そこに在るのか?その意味を考える様になった。

 

 

自分なりに一つ一つを読み解く事を繰り返しながら…人的創造物(言語も含め)大雑把では有るが意味を理解出来る様になり…

 

 

ある時、山に生えている草木を眺めた瞬間…

 

 

「道理は1つだよな…」

 

 

なんてストンと腑に落ちた。

 

 

簡単に説明すれば「在るから在る…」「成っているから成っている…」って事なのだ。

 

 

正直言って「そんな事だったのか…」なんて感覚なのだが…そんな事を話しても解る人間が殆ど存在しない事も最近は判る様になった。

 

 

2つの眼(まなこ)を見開き同じモノを観ようと解らない人間には解らない…

 

 

自分の「我(が)」が眼を曇らせ真実を見えなくしているのだが、我を外す事はなかなか難しい…

 

そんな事を一つの宇宙で在る、うちの茶室で寝っ転がりながらふと思った…(お茶の先生ごめんなさい…)

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。