「フツーは…」なんて言葉を聞く度、その言葉を発した方を観察させて頂く事がクセになっている。
普段から諸々やっている方、やってきた方が発した「フツー」ならばその後続く言葉に耳を傾けるが、申し訳無いが聞くに値しないと判断する事の方が多い。
一般的な誰が言い出したのかも判らない「フツー」に併せていたらその他大勢の世の中のフツーに埋没する。
特に「小事(しょうじ)」をおざなりにする人間が大多数を占める現在(いま)の時代のフツーに併せると「大事(だいじ)」に至る。大事に巻き込まれてから「気がついた…」では時は既に遅いのだ。
1本の真っ直ぐな針金を曲げるには1の力で曲げる事が出来るが、真っ直ぐな針金に戻すには10倍の力が要る。
フツーを連発しながら大勢で徐々に針金を曲げ続けている現在の人の世を横浜の山の中から眺めているが…
曲げきって千切れても気がつかないのが現在の人の世かもしれない…
昭和20年8月15日敗戦の日…玉音放送でその時代の世の中フツーの異常さに気づいた様に…
そのうち行くところまで行って気がつくのか…
人間が心で紡ぐ歴史はスガタカタチは違うが繰り返すモノだと常々思う…
横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。