雨を眺めながら考えた事…

 若い世代に対し「主体(自主)性を持って…」とか「主体(自主)的にモノゴトを考える…」なんていう大人と呼ばれる人間が言っている姿を見聞するが…

 

 

主体性、主体的にモノゴトを考える上で有っても基礎的な基準が必要と思っている。

 

 

人間とは悟りきらない限り間違える生き物なのだ。

 

 

主体的にモノゴトを考えながらも客観的に鑑みてバランスを取らねばならないのだ。

 

想うに、そんな主体的、客観的にバランスの取れた判断を降す基準の一つとして不動の如く残ってきた「宗教」や「東西を問わない哲学思想」が最適だと自分は思っている。(難しければ、現在も読み継がれる昔話でも良いと思う…)

 

 

何百年でもきかない様な、時空を超越し、人から人へと伝えられた教えの中に人間の智が詰まっている貴重なモノなのだ。せっかく在るのだから有難く使わねばもったいない…

 

但し、不動の如く残ってきた教えで在っても、読み解く側の人間の次元が低いと誤った読み解き方をするので注意が必要となる。

 

もう一度書くが、主体的にモノゴトを考え判断するにしても基準を持たねば判断を誤ることになる…

 

 

とかく現在(いま)の時代、世の中の「フツー」が基準となりがちなのでよくよく注意をすべきなのだ。

 

 

少々話は逸れるが…

日本人がよく言う、

「自分は無宗教…」

なんて方と出会う度、基本的に距離を置かせて頂く事に決めている。(宗教は持たずとも、東西哲学に傾倒されている方や自然を崇拝し大切にされている方は除く…)

 

自分が間違える事の無い現神、現仏だと宣言される方に凡夫如きの自分が話しをさせて頂く事自体おこがましいとの思いからだ。

 

自分は間違える凡夫で在る人間という自覚が有るので、自分なりに佛に手を合わせ…仏典、東西哲学教えをひもときながら自分の考えた事と照らし合わせ生きる事に決めている。

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