モノゴトが起こった時、他に理由を求め自分自身を納得させている以上、人間的な成長はそこまでなのだと思っている。
個人的に人間的成長とは外側に広げるのでは無く、誰もが本来心の奥底に持つ佛心に向かい内側へ掘り下げていく感覚なのだが、モノゴトの責任を他に転嫁した時点で掘り下げる作業は止まるものだと今は思っている。
その止まった時点の状態で自分の周囲に起こる出来事は善しも悪きもほぼ固定される。結局、自分の心の在り方、考え方による行動が固定されパターン化されるから同じ様な出来事がループの様に繰り返されるだけの話なのだ。
「何で自分ばかりこんな辛い事が起こるのだろう…」なんて話す方と出会うが、その時点での自分の考えに基づく行動という名の種を撒き、月日とともに成長した実を刈り取っている事に気づかない限り、その人間にとっては当たり前のループ状態なのだ。カボチャを収穫したいと願いつつ、麦の種を撒く…自分ではカボチャの種を撒いているつもりになっているが、麦の種を撒き…「誰が麦を撒いたんだ❗️💢」と他に責任を転嫁している様なモノなのだ。
離れて観ていると一見何の問題も無い様に観える時も有るが、よくよく話を訊き行動を観せて頂くと最終的に責任を他に転嫁して自分なりに無理して納得している事が判る。
何年も同じ悩みから解放されず、状況も変わらず時間だけが経過していく様子を見続ける事が有る。
以前はそんな姿を観る度に、「撒いているのはカボチャでは無く麦の種だよ!」と本人に指摘するという、今考えると当人にとって単なる迷惑なお節介をしてきたが、単なる迷惑なお節介だと解ってから相談されない限り何も言わない事に決めている。
自分自身、過去を振り返ると、本当に何度も同じ状態になり手詰まり感を覚え憔悴して凹んで自己嫌悪になった。根本原因を掘り下げる事無く原因を他に転嫁して、場当たり的にやり過ごしたが、早いと3日…3ヶ月…3年も経つと同じ手詰まり状態になる事の繰り返しだった。現在も過去にやった事の出来事に見舞われるが、全てのモノゴトは自分自身で招いた事と精査し極力同じ事をしない様に気をつける様になってから、そんなループから少しだが環境が変化した感が有る。
「現世は修行の場所」と言われるが、本当にまとを得ている言葉だと思う。
現在は自分の身に降りかかる全てのモノゴトで、特に悪いと感じる事象全て他に転嫁する事はしないと自分で決めた。それが天変地異に由来する事で有っても他に転嫁する以上自分の人間的成長はそこで止まると思っているからだ。
善い事は周囲の方々のおかげ…
悪しき事は自分の責任…
その事を自分で肝に銘じる事に決めたのだ。他人から「ソレをやれ❗️」と押し付けられた事では無く、自分自身で決めたソレくらい出来る人間になりたいと思う。
これから現在の考え方、感覚で自分自身現世を生きて、本当に正しいか実証実験を続けていく。
自分自身でやりもしていない空論を説いたところで説得力も何も無い事くらいは知っている。
横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。