宗教法人

来慶山忠暘院

「自分の為にのみ出来た事に喜びを感じているうちはまだまだ子供。自分が他に施す事で出来た喜びを感じられる様に為るのが大人」令和4年3月21日記

「自分の為にのみ出来た事に喜びを感じているうちはまだまだ子供。自分が他に施す事で出来た喜びを感じられる様に為るのが大人」令和4年3月21日記

「自分の為にのみ出来た事に喜びを感じているうちはまだまだ子供。自分が他に施す事で出来た喜びを感じられる様に為るのが大人」

人間はいろいろなモノゴトで喜びを感じる。

やっているゲームで高得点を出す…テストで良い点を取る…試験に合格する…会社組織で出世して地位が上がる。そんな事はあくまで自分の事なのだ。喜んでいる様ではまだまだ子供だと思って眺める。次男が司法試験に合格した事がやってきた努力に対して褒めはしたが、それ以上本人に何も思わないのは「凄い事を成したが、まだ学生で社会に対してまだ何も貢献してもいない」それだけの話なのだ。自分の子供といえど年齢的に成人した相手に対し子供の扱いをするのは失礼なのだ。その出来事で親で在る自分が喜ぶのはお前の親父は筋違いの馬鹿と息子に教える事と同じなのだ。

他に対して見返りを求める事無く、自分がさせて頂いた事で他が喜ぶ姿を観た時湧き出す喜びを感じられるのが自分が思う大人という存在だと思う。

無論現代社会を生きる現実が有るので対価として賃金を受け取る事を否定はしないが、対価以上のモノゴトの喜びを他に与えられるかが重要な事なのだ。

世の中を眺めると単なる法的年齢と生殖機能だけが成長した事を大人だと勘違いしているみたいだが、人間の大人とは動物とは違い深い思慮分別が出来、深めた思考に基づく行動、言動が出来る存在を大人と呼ぶのだ。

人間の大人に成りきっていないのに大人になった勘違いをし、次世代に対しいい加減な事を教える事自体、恥って事を知らないのかと思う。

この文章を読んで「ヤバっ…」と感じた方に対してだが、先に生まれてしまったならば、人間の在るべき本当の大人に為るべく意識して精進するべきだ。せっかく人間に生まれながら動物と一緒で人生を終えるのはあまりに勿体無さ過ぎる。

忠暘院

横浜市緑区のお寺です。
よろしくお願い致します。